1197 平和憲法の歴史探索:ハミルトン・フィッシャー「私はルーズベルト大統領を許さない」

米国とは戦いたくなく,和平を求め続けていた日本,
その日本が,戦争責任を問われて,平和憲法を押し付けられたのは,如何にも皮肉です。


【「私はルーズベルト大統領を許さない」】
ハミルトン・フィッシャーとルーズベルト大統領についてよくまとめられたビデオです。

ハミルトン・フィッシュ曰く,「(日米開戦について)私はルーズベルトを許すことが出来ない」と。
この書籍によれば,フィッシュは,「1976年まで,ハルノートの存在を知っていたのは米国民の僅か1%にすぎなかった。」
おそらく,日本の憲法学者は,今でも知らないのではないか?
(あるいは,目や耳を塞いで,「見えない,聞こえない」とする。)


【平和憲法の原因となったルーズベルト大統領の生い立ちと家族】
Wikipediaから

    1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。父ジェームズ・ルーズベルト(1828年 – 1900年)は,デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家は1650年頃にオランダのハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系といわれる。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり,それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。

    18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず,親交が続いた。
    フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 – 1941年)は,フランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり,デラノ一族は阿片戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり,ジェームズは再婚で,フランクリンが生まれたとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子,つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず,生涯,支配的な影響を与えた。

    この時代の富豪の子弟の例に漏れず,フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時,名門グロトン校に入学を果たしたものの,寄宿舎生活にはなじめなかった。 1904年にハーバード大学,1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で,セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。
    1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前,1905年の聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には,大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。6人の子供をもうけ,4番目の息子エリオットはのちに作家となった。

    1911年10月11日にフリーメイソンに加入した。


【参考:日米開戦に至る経緯】

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