385 親も教師も国も,子どもの権利に対する義務者/日教組問題(前編)

子どもの監護権や親権は,以前にも詳しく述べましたが,
子どもの福祉を充実させるためにあります。

ですから,親の権利というよりも,子どもの権利に即応する親の義務です。

面会交流も,子どもの利益のために,別居中の親が面会に行くわけです。
養育費等も,監護している親の生活のためでも,ましてその小遣いのために貰えるのではなく,
子どものために別居中の親に請求できるのです。

このことは重要ですし,
実は何十件以上担任しても,毎回言わなければならないほど,当初は中々理解して貰えていません。
親同士の競争意識や嫉妬等のために,冷静さを失っているのでしょう。
つまり自分の権利意識でしか見えなくなっているのでしょう。


とはいえ,繰り返し繰り返し説明すると,親であれば,最後は理性を取り戻し,
理解を示してくれます。
夫婦の感情的なしこりを離れて,冷静になって,子どものことだけを真剣に考えたとき,
愛情ある親であれば,最後はストーんと腑に落ちるのでしょう。

    激しい子の奪い合いをしても,
    あたかも最後は大岡裁きの裁判例の如く
    子どもが「痛い」と言ったら手を離す境地に達するのかもしれません。



これに対して,教師や国は,子どもにどう関わってきたでしょうか。

これに関しては,
最判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁
旭川学力テスト事件があります。

最高裁は,私が最初に述べたに,やはり子どもの利益を中心に置いて,論じています。
①親の教育の自由,
②(義務教育等の)教師の教育の自由,
③国家の権限
いずれにせよ,子どもの権利利益を満たすために行われるべきもので,
①~③の教育を施す等の側が勝手なことをして良いのではないと。

    【要旨その1】
    全ての子どもは,一個の人間,一市民として,成長発達し,自己の人格を完成,実現するために必要な学習をする固有の権利を有する。
    そして,子どもはみずから学習することができないから,その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する。
    このように,子どもの教育は,教育を施す者の支配的権能ではなく,何よりもまず,子どもの学習をする権利に対応し,その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する

    従って,本来的には,親,教師,国が,その目的の下に一致協力して行うべきことになる。
    しかし何が子どもの利益であり,また,そのために何が必要であるかについては,意見の対立が当然に生じうる。

    まず親は,子どもに対する自然的関係により,子どもの将来に対して最も深い関心をもち,かつ,配慮をすべき立場にある者として,子どもの教育に対する一定の支配権,すなわち子女の教育の自由を有すると認められる。ただこのような親の教育の自由は,主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられる。私学教育における自由等

    また,教師の自由も,それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当である。

    国は,一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定,実現すべき立場にあるから,前記2つ以外の領域において,国政の一部として広く適切な教育政策の樹立・実施者として,子ども自身の利益の擁護,子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため,必要かつ相当と認められる範囲において,教育内容についてもこれを決定する権能を有する。


親,教師,国,いずれの独善も許していないところが,さすが最高裁ですね。

(後編に続く)

                    -byフローラ法律・岡崎 from 2013.3.24-

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