184 信教の自由の否定は人格の多様性,幸福追求権の否定

ととと
ノーベル賞も受傷した,ダライ・ラマが苦渋の選択をされた。

ダライラマはチベット仏教のいわば法王的存在で,チベット民族の心の拠り所を守るために,中国の迫害を離れ,亡命したのだ。

私はその著書の大半を読みましたが,実に誠実な内容でした。

そのダライラマが,なんと,チベット仏教の伝統を否定するかの苦渋の選択をしたのです。


記事にもあるように,
宗教を完全否定するはずの共産主義の中国の方が,むしろダライラマ後継者選び制度を維持せよと,一見不思議なことを言っている。
要は,中共によるチベット国への侵攻統治にチベット仏教を利用・悪用しようとしているワケ。。。

    共産主義は,「宗教はアヘンだ」といって,共産主義という宗教を布教しようとしているのは有名な話。。

    でも,中共は,逆にチベット仏教の中核を支配することにより,チベットを略奪しようとしているワケ



【信教の自由を保障する意義】
信教の自由を,世界中の良識ある国々の憲法が認めるのはなぜか。

それは,人格の多様性を認めて,その人の幸福追求権を保障するため。

共産主義の,「宗教はアヘンだ」から,宗教を全面否定するというのは,要は,個人の人格の多様性や幸福追求権の否定にほかならない。

そうした中で,チベット仏教の法主後継選びに介入していく中共の姿は,それをえげつないやり方を応用したにすぎない。



ただでさえ,法輪功の臓器狩り問題が中共にはある。

もし中共の選んだチベット仏教法主が生まれれば,
あたかもオウム真理教の麻原のように,法主の権限を濫用して,チベット人をどんどん「ポア」していくことは目に見えている。


信教の自由の否定というと,
現代の多くの無神論者の方々は,何の関心も示さないかもしれない。

しかし仮に,宗教を信じる人が少数者であると仮定しても,
その少数者の人格的信仰を尊重することこそが,結局,個人の人格の多様性を認めることなのだ。

こんな心の問題すら,いちいち干渉してこれを全面否定するなら,一体どこで個人の人格の多様性を認める場面があるといえるか!



中国や共産主義を断固として許さないという多くの先人達(日本も含む)の覚悟の核はここにある。

    希代の大物大蔵事務次官でかつ大蔵大臣をも勤めた生粋の国士:
    賀屋 興宣(かや おきのり)氏は,反共の人だった。

                    -byフローラ法律・岡崎 from 2013.3.24-

カテゴリー:憲法問題世界平和人権侵害

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